| « ブルース・リーのThe Green Hornet用カメラテスト | なげやりさが怖い薄氷警告の看板 » |
いわき周辺の観光案内コーナー! ではなく、次回作品の参考のために、ちょっとしたまとめをする自分用エントリ。
いわき駅の北側は旧「平城」の跡。絶好の観光資源だが、残念ながらほとんどが宅地化されている。
その中に、丹後沢と呼ばれるお堀の跡がある。地図は下記。
→ Google Map (※いわき駅北側の城跡)
丹後沢は「丹後」という老人が人柱になることで完成したという伝説が残っている。
この伝説には何パターンかあるが、そのうちの一つを紹介しよう。(いつものことだけど儂は嘘つき。以下の文章も儂のつくりが混じっているので、こういう歴史があるよー、という引用をしたり、史実としてへーって思ったりしないように。)
慶長七年、徳川家康によって西軍だった岩城氏が追いやられ、代わりに鳥居忠政が磐城平十万石を治めることになった。
その際家康は、鳥居忠政に堅固な城を築くよう命じた。仙台の伊達政宗を牽制するためである。
慶長八年、かの地にやってきた忠政は、その後十年以上の歳月をかけ、現在のいわき駅の北側の丘に平城(別名、飯野城または龍ヶ城)を築いた。
さて、浜通り(福岡県の海に面した地域)は山々に細かく挟まれ、おおざっぱな谷間になっており、だだっぴろい平野、というものがない。地図で見ると、東の海の方に爪先を向けて手のひらを広げて置いた、その指の股部分に平地があるようなイメージだ。
そのせいか沼地が多い。ゆえに平城の普請は苦労の連続だった。
なかでも、城の北西にあたる沢をせき止めて堀にする計画は、難工事を極めた。
周辺の村々から駆り出された人夫たちが苦労して堰(せき)を築いても、沼地だけあって地面が緩く、ちょっと大雨が降るとすぐに決壊してしまう。
しかし忠政は、ここに堀をつくることにこだわった。堅固で知られる大阪城の、内堀みたいにしたかったのだ。
それぞれの思惑はともあれ、早く工事が終わらせたい、という点については、為政者も民衆も一致していた。
人柱を立ててはどうか、と進言する者があり、忠政は乗った。
領内を回状が巡った。米寿を過ぎた老人はいないか、いたら殿様のところまでただちに連れて来い、と。それぐらい歳を取っていれば、いなくなっても誰も困るまい、と、忠政なりに気を遣ったのかもしれない。
ほどなく条件にかなう老人がみつかった。菅波村の丹後という、九十を過ぎたじいさんだ。急ぎ、役人に連れられて忠政の元へやってきた。
忠政は丹後に、おまえを堀の工事責任者にする、絶対に成功させろ、と命じた。もちろん遠回しに、人柱になれ、と言っているわけだ。
それをひしひしと感じ取った丹後。観念し「人柱になるので、私が埋められた場所を丹後沢と名付けて末代まで名を残してくれ」と忠政に願った。
丹後の素直さを忠政は喜んだ。ごねられたら後味が悪いところだった。
褒美はなにがいいか聞いた。死ぬ人間に褒美もなにもないものだが、丹後は「息子たちは皆死に身寄りもないが、ただ一人の孫である弥蔵の行く末だけが心配。弥蔵をぜひとも取り立ててくれ」と頼んだ。
忠政は了承した。すぐに丹後は谷底に向かった。
待ち受ける大勢の人夫たち。丹後は谷底で、今生の別れになにか舞い謡っているようだったが、上から土がどんどん落とされ、埋められた。
以降、雨が降っても沢は決壊しなくなり、工事はうまくいった。
という「丹後沢」の写真が下記。
上の写真は8月16日に撮影したもの。
沼というか池の様相。そしてほとりには住宅、住宅、住宅。気にしてないのかな? 気にしてないんだろうな、人柱。
沼の、お城があった側には遊歩道がある。うっそうとしていて面白い。
さて、丹後の孫である弥蔵。彼は山代官に取り立てられるのだが、彼が引き金となってとんでもない騒動、具体的には集団リンチ殺人が起きるのである。それはまた別の機会に。
以上、執筆のためのまとめでした。
平城に関しての参考:
→ 磐城 平城(いわき市)/登城記 (タクジローの日本全国お城めぐり)
※お城好きにはたまらない、ナイスなおすすめページ。ここ行った! うわっここ行きたい! と個人的に盛り上がった。
参考文献:
『いわきの伝説と民話』 いわき地方史研究会 ISBN4-924912-18-2
ほか